大人ふたりに笑われたことでご機嫌斜めな孫市は、慶次が風呂の戸を閉めるなり──怒りの中でも一応掃除のことを考えていたらしい──ばしゃりと浴槽の湯を引っかけた。
「…何だい藪から棒に」
「なにわろてたん!」
 ばしゃばしゃ。なかなか狙いは的確で、慶次は頭のてっぺんからずぶ濡れになった。
「けぇじのこっちゃから、どうせろくでもないことでわろてたにきまってんねん!!」
 物凄い決めつけであるが、あながち外れてもいない。とりあえず慶次は両手を上げて降参した。そして徐に椅子に腰を下ろす。
「悪かったよ。孫市が可愛いなあ、って笑った俺らが悪かった」
「ほんまに?」
「本当本当。ほれ、腕」
 疑いのマナコで見つめてくる孫市を膝の間に立たせ、慶次は手桶でざばりと頭から湯をかける。そして素直に出された細い腕を取り、濡らした手拭いでごしごしと擦る。
 擦られた細い腕からはぽろぽろと垢が取れ、そこから肌がぽわりと赤くなっていった。
「けぇじ、そんなちからいれたらいたい〜」
 眉間に皺を寄せた孫市は、毎度お馴染みの苦情を云う。慶次とお風呂で遊ぶのは好きだが、身体を洗われるのだけは嫌いだ。何しろ痛い。
「折角風呂に入るんだ、綺麗にしないと駄目だろう?」
「そらそうやけど…」
 そして毎度お馴染みの会話が儀式のように繰り広げられ、孫市は痛いのを我慢することになるのだ。毎度毎度『もうちょっとやさしゅうにできへんのかなぁ』と思いつつ。
 ごしごしごしごし。頭のてっぺん──とはいっても瘤のある前頭部は優しく撫でたにとどまったが──から足指の股まで容赦なく擦ら続けた孫市は、はいおしまい、と手桶で垢を洗い落とされてようやく一息ついた。
「は〜つかれた〜〜」
 へちゃ、と慶次の膝に座って休憩している孫市の前に、慶次は笑って手拭いを差し出す。
「ほら、もう一仕事だ」
「ふん」
 孫市は手拭いを受け取り、ぱたぱたと畳み直す。今度は孫市が慶次の背を流す番である。孫市はくるりと慶次の背中側に回り、目の前に広がる広大な背中に手拭いを乗せた。
「ほないくで」
「はいよ」
 孫市は渾身の力を振り絞り、なぜかは知らぬがでこぼこしている背中を擦りはじめた。えいえいえい、と掛け声付きでめいっぱい擦るのに、どうもあんまり堪えている感じではないのが悔しいところではある。
「どうした、ちっとも痛くないぞ?」
「ふにゅ〜っ!」
 負けず嫌いの性格はこんなところでもきっちり慶次に利用されているのだが、孫市はそんな事には勿論気付かない。全身のバネを利用して擦りまくった挙げ句、勢いあまってひっくり返りそうになってようやく降参するのも毎度毎度の事であった。
「はいおわり〜」
「はいご苦労様」
 孫市の終結宣言を湯桶に湯を満たして待っていた慶次にもう一度頭からざばざばと湯を掛けられ、犬のようにぶるぶると頭を振った孫市は、ぺたりぺたりと髪を後ろに撫でつけてから浴槽の縁によじ登る。そして体を洗う慶次を浴槽の中から眺めつつ、話を始めるのだった。
 浴槽の縁に両腕を置き、その上に顎を載せるような格好で。孫市はふ〜、と大きく溜息をついた。
「きょうはいろんなことあったなぁ。こぶはでけたしまさむねあんにゃんはきたし」
「政宗と魚捕りしたんだって?」
『ふん。さっきけぇじもたべてたやんか」
 食卓に小さい川魚の塩焼きが出ていたのは、どうやらふたりの収穫品だったらしい。しかしあまりにもひとつひとつが可愛らしくて、おかずと呼ぶには分量が少なかった気がする。
「大きい魚は捕れなかったのかい?」
「がんばってんけど、さんひきしかとられへんかってん。けんかになったらあかんから、にがしたってん」
 なるほどねぇ。慶次は相槌を打ちながら空になった湯桶に湯を汲んだ。

***

「ところでなぁ、聞きたいことがあるんだがね」
 慶次の腿の上に座ってぱちゃぱちゃと水面を叩いていた孫市は、すぐそこから振ってきた声に振り返る。
「なに?」
「小十郎のことさ」
 孫市の視線の先にある慶次の顔は、少し恐い顔をしていると孫市は思った。とりあえず、話をしやすいようにくるりと身体ごと反対を向いてから孫市は当面の疑問を口にした。
「こじゅ〜ろ〜? なんで?」
「何で小十郎の事だけ覚えてるんだい」
 孫市の大きな目をじっと覗き込んでくる慶次はやっぱりちょっと恐い。だが、どうにも自尊心を傷つけられたような気がしたのでまずその点について反論をはじめる。
「なんでって、ひとをあほのこみたいにいわんといて。ぼく、ものおぼえはええねんで」
 ぷうとむくれたその表情からすると、非常に不服であるらしい。確かに孫市は細かいことまでよく覚えているし、慶次もそれは認めているのだが。
 だが、事は孫市が思っているよりはずっと重大だ。慶次は膨れたほっぺを指で軽く撫でながら、重ねて問う。
「他に何か覚えてないか」
 慶次の真剣な表情が崩れないのを見て取ると、孫市は観念したのか、は〜、と大仰な溜息をついた。
「こじゅ〜ろ〜とおはなししたのはおぼえてるけど、なんのはなししたかまでおぼえてない〜」
 さっきは伊達政宗公御幼少のみぎりの添い寝と夜尿症について話した、と云っていたのに、もう孫市の記憶にはないらしい。どうやらわざわざ嘘を吐いているようにも見えないし、その必要性もない。
 というより、ほとんど思い出せないだけで、今までの記憶は全てこの小さな頭にもちゃんと詰まっていると云うことか。さっきのように何かの拍子にぽろり、と出ることもあるのだ。
「…」
 黙って考え事を始めてしまった慶次のぼやけた視界に、にゅ、と大きな目が入り込んでくる。じいっと見上げてくるその目は、心配そうに揺れていた。
「けぇじ、おこってんの?」
 真剣な表情で考え事をしている姿が、どうやら怒っているように孫市には見えたらしい。
 ぴたり、と濡れた手が頬に触れてくる。浴槽の縁にかけたままだった手を冷えてしまった小さな背中に回し、片手で湯をかけて温めてやる。
「怒っちゃいないんだが、ねぇ」
「なんで? ぼくこじゅ〜ろ〜のことおぼえてるけど、こじゅ〜ろ〜のことべつにすきでもきらいでもないで」
 どうやら、怒っていないと云いつつ怒っているのだと思われたらしい。慶次は思わず苦笑した。が、孫市は更に云いつのる。
「けぇじのことはら〜いすきやからええやん。それともはんたいのほうがええの?」
 そんなもの、当然否に決まっている。
「良くない」
「そやろ? ほな、おこるのもうやめな」
 すりすり。孫市一流の懐柔策であるところの『ぴちゃっとくっついてすりすりする』が炸裂する。これは少なくとも此処の住人にはかなり効果がある。
「…まあ、いいけどねぇ」
 ちゅ、と頬に可愛い接吻を貰った慶次は、とりあえず懐柔されてやることにした。









 可愛らしさを十二分に使って大人を篭絡。悪い子供ですねぇ(笑)

 次にちびが何かを思い出すのはいつの話になるのでしょうか。とりあえずそろそろ殿様には領地に帰って頂かないといけませんね。