
「おふろ、おっふ〜ろ、たのしいな〜〜」
機嫌良く歌いながら孫市が脱衣所に駆け込むと、そこにはまだ風呂から上がったばかりの幸村がいた。濡れた髪を手拭いで拭いていた幸村は、少し灰の載った頭に手を置いて労をねぎらう。
「風呂の番ご苦労様。暑かったろう」
汗でしっとりと濡れている髪を撫でて貰って、孫市は満更でもないようだ。が、口ではしっかりしているような事を言う。
「ふん。でもおしごとやからしゃあないもん。…なあ」
「ん?」
「これ、やって」
見下ろしている幸村に向かって、孫市は自分の後頭部をぴこぴこと指した。そこには孫市愛用の赤い組紐が蝶結びになっている。
「解けないのか?」
自分でやったのならともかく、阿国が結んだ蝶結びである。引っ張れば解けるはずで、わざわざそれを頼んでくることに不審を覚えた幸村は、理由を聞いてみることにした。
すると、孫市の眉間に深い縦皺が生まれる。
「いっかいしっぱいしてな、かたむすびになってたいへんやってん」
一度大人が誰もいないときにそうなってしまい、結局泣きながら無理矢理引っこ抜いたのだという。ものすごいいたかってん、と身振り手振りを交えて説明する孫市の姿は幸村の微苦笑を誘う。
「そやからな、やって?」
「はいはい」
幸村はするりと髪紐を解いてやった。後頭部に開放感を感じた孫市はありがとぉ、と云いつつふるふると首を振る。そうすると、ほどけた髪がふわりと肩に落ちた。
そして兵児帯を後ろ手で解き(これは失敗したことがないらしい)、あっというまに褌一枚になった。その格好のまま、孫市は丁寧に着物を畳み始める。
阿国に教えられたとおりにきちんと着物を畳み終えると、孫市は再び髪を拭き始めた幸村を振り仰いだ。
「ゆきむらあんにゃん、おふろきもちよかった?」
「ああ。孫市も早く入れよ」
さっさと入ればいいのに何故か褌のままきょろきょろしている孫市は、その理由を小声でつぶやいた。
「ふん。でもな、けぇじがまだけぇへんから…あ」
孫市は全開になっている戸の向こうに待ち人を発見したらしい。それは向こうも同じのようで、こっちに軽く手を振っている。
「よう、孫市ぃ」
「おそいでけぇじ〜」
ぱたぱたと手を振り返しながら、孫市は脱衣室に入ってきた慶次に待たされたと苦情を云った。慶次は悪い悪い、とくしゃくしゃに孫市の頭を掻き回す。
「先入ってりゃ良かったのに」
だがそう云われた途端、ぷ、と孫市のほっぺが膨らんだ。
「ゆきむらあんにゃんとはなししてたからここにおっただけやもん。けぇじのことまってたんとちゃう」
幸村は一瞬の間の後、くすくすと笑い出した。慶次がまだ来ないから、と云っていたのはついさっきの事だ。慶次もそれが分かっているのだろう。顎に手を当ててにやにやと笑う。
「ふーん」
幸村のくすくす笑いと慶次のにやにや笑いを殊更に無視して、しゅるりと越中の紐を解いて裸になった孫市は風呂の戸をがらりと開けた。
「ほな、さきはいってるから。はよおいでや」
ぴしゃり。照れ隠しなのか何なのか、怒ったように風呂の中へ消えた小さな背を見守ったふたりは、どちらともなく笑い出した。
「…素直じゃないなぁ」
ひとしきり笑った幸村は、目尻を軽く指でぬぐいつつしみじみと云った。
「そうかい?」
脱いだ着物を簡単に畳みながら、慶次は幸村を見た。暫し黙って視線を交わしたふたりは、再び笑いを爆発させた。
あー可笑しい、と手拭いを一振りして畳んだ幸村は、洗い物を手に戸口へと向かう。
「ま、可愛いのは間違いないですがね」
慶次はぱちりと瞬きをしてから、幸村に片目を閉じて見せた。
「じゃあ、ちょっくら怒られてくるわ。アンタも子守頑張れよ」
幸村の脳裏に、今頃退屈して部屋の中をぐるぐる歩き回っているであろう隻眼の少年の姿が浮かぶ。やはり『遅いわ、馬鹿め!』とでも云うのであろうか。
笑いの虫がまた疼き出した幸村は、軽く会釈をして母屋へと向かった。その背後から、『なにわろてたん!』と声高に慶次を問いつめる孫市の声が飛んでくる。
政宗に、西瓜でも持って行ってやろうか。
食べ物に釣られやすい食べ盛りの少年のご機嫌を損ねないよう、くすくす笑いが止まらない幸村は、西瓜を取りに井戸へと向かうことにした。
…なかなかお風呂に入れません_| ̄|○ 次こそは。
ちびは自分で蝶結びはできません。常に他力本願。