
「まさむねあんにゃ〜ん」
夕食後、暫く姿が見えなかった孫市が、政宗の陣取っている座敷に戻ってきた。
幸村と碁を打っていた政宗が顔を上げると、孫市はすぐ隣まで来ており両腕をぱたぱたと上下に動かしている。だが、その頭を包んでいたはずの手拭いは既にない。
「何だ、泥棒見習いはもうやめたのか」
「ぼくどろぼうちゃうもん! もうたんこぶちっちゃなったからええねんて」
瘤の出来ている前頭部を指先でちょこちょこと撫でながら孫市は云う。
「おねやんがおふろあいたで、ってゆうてきて、って。はよはいってな」
ここの入浴順は変わっている。この時代大抵は男が先で女が後であるが、此処では何故か一番湯は常に阿国である。そして若い者が先、というよくわからぬ基準で政宗が入り、あとは順番を交互に入れ替えて入っている。
女が一番風呂かと、ここに来始めた当初は少々憤慨したものだ。が、『俺の垢が浮いた風呂に入るのと、さっきまで美女の柔肌を包んでた湯に浸かるのと。お前、どっちがいいんだ?』と孫市に云われてからは何も言わないことにしていた。そんなもの断然後者に決まっている。長幼の序とやらで野郎の汚い垢にまみれるより、女の後に風呂に入る方がよっぽどいい。
だが頬に煤をくっつけたままの小さな孫市は、どうみても入浴前である。若い者から、という順番から行けば当然孫市が阿国の次の筈である。
「孫市は入らぬのか?」
手を伸ばし、頬の煤を拭い取ってやりながら政宗が尋ねると、孫市は少し胸を反らして威張って見せた。
「えっとな、ぼくはおふろのかかりやから、さいごにはいんねん」
このくらいの子供が風呂の番をするのは別に珍しいことではない。一日中家の手伝いをする子供もいる中で、孫市のように遊んでばかりいる子供は少数派だろう。
「ひとりで火の番か?」
「ううん、けぇじといっしょ。そやからおふろもいっしょ」
すかさず補足した幸村の弁によると、実際は風呂の番をしているのは孫市だけだという。慶次は別に何をするわけでもなくその辺の庭石に座っているらしい。孫市が煤けている間の慶次の仕事といえば、手は忙しいが口は暇な孫市と喋ることだけである。
「だって、ひとりでおったらひまやんか」
孫市はそう云った。確かにそうではあるが、仕事というのはそういうものだ。
「暇かどうかという問題ではなかろう」
「どうせやるんやったらたのしいほうがええやん」
「…」
なんだかんだ云いつつ、所詮ここの大人達──特に慶次は、この口の達者な子供に甘いのだ。そう悟った政宗はつい言葉が途切れてしまう。
「ほな、はよきてな。まってるで〜」
政宗が黙ってしまったのを知ってか知らずか、孫市は云うだけ云って再び廊下の先へとぺたぺた消えていった。返す言葉を失って固まっている政宗に幸村はくすくすと笑いながら、碁盤を部屋の隅へと移動させて云った。
「勝負は風呂上がりまでお預けだな。ほら、早く早く」
のそりと立ち上がった政宗の手に湯上がりの用意を載せてやりながら、幸村はぽんと低い肩を叩いたのだった。
***
「お・ふ・ろ、おっふ〜ろ♪」
政宗が少し熱めの風呂から上がってくると、孫市は妙な歌を歌いつつ座敷に敷かれた布団の周りをとてとてと走り回っていた。政宗の姿を見つけると、おかえり〜とへらりと笑う。
「あんな、ぼくももうすぐおふろやねん」
嬉々として洗い立ての浴衣と褌を握りしめて振り回している姿は、どう見ても無類の風呂好きにしか見えない。というか褌を振り回すのはよして欲しい。
だが、政宗は敢えてそれを口にするのをやめた。風呂に入るのが何より楽しみ、といった風情で浮かれている孫市をしょげさせる程の事ではないと思ったのだ。だから、無難な質問で我慢してみる。
「そんなに風呂が好きか?」
「うん!」
けぇじとおふろ、たのしいな〜、などと歌いつつ走り去ってしまった孫市の背を見送りつつ、政宗は床に置かれている団扇を拾った。
政宗と入れ替わりに風呂に入った幸村が戻るまではどうせ暇である。政宗は月を眺めつつ、ゆっくりと団扇で涼をとることに決めた。
***
孫市は政宗の寝所から出た後風呂の用意を済ませ、そそくさと風呂の焚き口に戻ってきた。そこでは慶次がひとり、庭石に腰掛けて酒を飲んでいる。孫市は、高いところにある窓に向かって話しかけた。
「ゆきむらあんにゃ〜ん、おゆかげんは?」
ざばざばと体を洗っていると思しき水音がふと止まり、少し反響しながら幸村の声が返ってくる。
「大丈夫だ」
「ほな、ぬるなったらおせてな〜」
「ああ」
慶次に手招きされ、よっこらしょ、とその膝の上によじ登る。その途端、辺りに漂う酒の香りに孫市は鼻をひくひくさせた。
「けぇじ、おさけくさいで?」
「そうかね」
孫市は逞しい肩に手を置きくっつきそうなほどに鼻を近づけて、ふんふんと慶次の口元を嗅ぎ回る。暫くそうしてからようやく納得したように膝の上に座り直した。
「そうかね、とちゃう。やっぱりくさい」
「そりゃぁ酒を飲んでる最中だからねぇ」
孫市の鼻先にふうっと息を吹きかけ、慶次は笑う。大きな目を半分ほどに眇め、孫市はにこにこと機嫌のいい慶次を振り仰いだ。
「くさい〜いうてんのに。ええとししてこどもみたいなことしなや」
「そんなに臭いかね」
「…もうええわ」
一向に反省の色を見せないどころか、孫市の頬に擦り寄せてきた慶次の頬を孫市は両手で押しのけつつ溜息をついた。慶次に頬擦りされるのは好きだが、夜は伸びてきた髭がじょりじょりと痛いから嫌いだ。
ぴょい、と地面に飛び降り、孫市は慶次と間合いを切る。
「おひげじょりじょりはいややで」
「…仕方ないねぇ」
慶次は諦めたように杯に残った酒を呷り、瓢箪に栓をした。
孫市がその気になれば朝だろうが夜だろうが別に厭がられることはないので、頬擦りはしばらく我慢することにしたようだった。
「じゃあ俺も風呂の用意をしてくるかね」
「ふん。まってるで」
慶次はひらひらと手を振って、瓢箪と杯を持って姿を消した。ひとり残った孫市は、再び風呂に向かって声を投げた。
「ゆきむらあんにゃ〜ん、おゆかげんどう?」
「こんなもんだろう。もう火を消してもいいぞ」
幸村にとっては丁度いい湯加減なので、幸村はそう答えた。
孫市はぬるい風呂が好きだ。幸村がいい湯加減だと思うくらいの温度は、孫市には少し熱く感じるらしい。だからこれ以上熱くすると孫市が入れなくなる。
「ぼくはいってもあつない?」
「熱くない熱くない」
孫市は云われたとおり釜から薪を引っ張り出し、あちあちと云いつつ消し炭にする。そして完全に火の始末を済ませると、てくてくと風呂の入り口に向かう。
(やっとおふろや)
孫市はいつの間にか、即興のお風呂の歌をまた歌い始めていた。
思ったより長くなったので予定変更、お風呂はまた次回。
夜の頬擦り厭ですよね(-"-;) 子供の頃酔っぱらった親父から逃げ回った記憶が。
五右衛門がいないのは、彼は今夜仕事に行っているからです。どんな仕事なのかは誰も知りません。それが前田組。