
ほこほこと湯気をまとわりつかせた孫市が早足で座敷に戻ると、幸村と政宗はまだ碁を打っていた。幸村は孫市の気配にすぐ顔を上げて手招きしてくれたが、長考の真っ最中と思しき政宗は盤面を見つめたままである。
呼ばれるままにちゃっかり幸村の膝に収まった孫市は、暫くの間向かいに座る政宗を黙って見ていた。が、時折小さく唸るだけでほとんど動きのないことにすぐにしびれを切らしてしまう。少し尻をもぞもぞさせていたかと思うと、首だけ後ろに向けて幸村の顔を見た。
「…なあゆきむらあんにゃん?」
一応小声なのは、眉間に深い皺を刻んで固まっている政宗に対する配慮であるようだ。
「うん?」
「ごいしかして。ちょっとらけでええから」
云いながら、幸村の手元にある碁石入れから黒い石をひとつつまみ上げ、孫市は掌に乗せた。黒く艶やかな表面が、掌から立ち上る湯気でふわりと曇る。
「何に使うんだ?」
立ち上がった孫市は幸村に向き直るとにへ、と笑顔を向けた。
「おはじきにすんねん〜」
なるほど。得心した幸村は孫市に両手を出させると、白と黒それぞれ五個ずつ掌に乗せてくれた。
「ありがとうな」
とびきりの笑顔付きでそうささやくと、小さな手から溢れそうになった碁石を、孫市は落とさぬように慎重に歩いていく。そしてちょこちょこと衝立の向こうへと消えた。それから何度かおっとっと、という声が聞こえてきたが、どうやら無事に阿国の元に辿り着いたらしい。
さて、敵はどう出るか。手遊びに持っていた黒い石を二つ弄びながら、幸村は改めて盤面に意識を戻した。
***
「なあおねやん、おはじきしょ〜」
足で襖を開けながらそう声をかけた孫市は、遊んでもらおうと思った相手が早々に蚊帳に入って横になっているのを発見した。
「? どないしたん?」
じゃらり、と碁石を畳に置いて、孫市は蚊帳の裾をぱたぱたと払い、素早く網をくぐった。そして目を閉じている阿国の額にぴちゃりと手を乗せた。熱くはないと孫市が思ったそのとき、長いまつげがぽかんと開いた。
「…孫ちゃん?」
幸せな居眠りの現場に踏み込まれた阿国は、目の前にある侵入者の姿を確かめるとその名前を呼んだ。 「おねやんらいじょ〜ぶ?」
心配そうに覗き込んでいる大きな黒い目が、見上げる阿国自身を映している。具合が悪いらしい、と皆に云われるのも困るので、阿国は早々に誤解を解いておくことにした。
「大丈夫大丈夫。ほっと眠たなっただけやから」
よいしょと起き上がった阿国は、ほんまに〜? と不審そうな表情を崩さない孫市の頭をちょいちょいと撫でた。それでも眉間の皺は取れない事を見て取ると、阿国はさっさと秘密兵器を出す事にした。
「そうやわ、水瓜。慶次さまと孫ちゃんの分置いてあるからお食べ」
水瓜という単語を耳にした瞬間、孫市の心配そうだった目がぱあっと輝きを放つ。
効果覿面。現金な話だが、子供らしいといえば子供らしい。
「すいか〜? そんなええもん、なんでぼくにないしょにしてんの〜」
ちゅい、と唇を尖らせた孫市は阿国の手を取ったかと思うと足をもぞもぞさせる。存在を知ったからには一刻も早く食べたいらしい。そのいてもたってもいられないという風情がおかしくて、阿国はうふふと笑った。
「あるて知らんほうが、知った時嬉しいでしょ」
「…うれしいけど…う〜ん…」
意外性ゆうのは大事なんよ、と笑う阿国と手を繋いで井戸端に向かった孫市が見たのは、今まさに大きな口を開けて水瓜にかぶりつこうとしていた慶次の姿だった。
***
「あ〜、けぇじじぶんばっかしずるい〜!」
甲高い非難の声が、長考を続けている政宗の耳に飛び込んできた。
「…五月蝿いのう」
白い石を指先でひねくり回しながら呟いた政宗は、それでもぱちりと盤面に星を置いた。その位置を確かめた幸村は、ふうと溜め息をひとつつくと立ち上がった。
「どこへ行く」
「私も水瓜が食べたくなった」
幸村はじろりと見上げる隻眼の脇をすり抜け、黙って縁側に出た。そして草履を突っかけて井戸端に歩き出した背中を、政宗は慌てて追いかけた。
「客を置いていくとは何事だ。儂も行くぞ!」
そう云ったかと思うとあっという間に幸村を追い越し、提灯の明かりに照らされた井戸端に駈けていく。
早速慶次や孫市とわあわあ騒ぎ始めた伊達の殿様の、年相応の表情を確かめた幸村はふと笑みを浮かべた。そしてその輪に混ざるべく、少し歩く速度を速める事にした。
殿様居座ってます。まだ帰りたくないみたいです(笑)
ちびは女の子の遊びも好きです。というか夜は家の中でしか遊べないだけかも。