門をくぐった政宗は視線を感じた。ふと顔を上げると、六尺の高さからじいっと見ている『孫市』と目が合った。
 その途端、『孫市』の真剣だった表情がぱ、と笑顔に変わった。不躾だ、と怒るつもりだったのに、その笑顔に気が削がれる。
 慶次の肩に握り拳にした両手をちょっこりと載せて、その手と手の間に顎を載せている『孫市』は、笑顔を浮かべつつもやはり政宗を凝視している。居心地の悪さすら感じさせる見つめっぷりに、政宗は無意識に右目に手をやる。
 それは、幼い頃に右目の視力を失った彼の癖であった。
「何か用か」
「ううん、おとのさまってはじめてみるから。めずらしなぁとおもて」
 意外な答えを返されて、政宗は気が抜けた。この間抜けな頬被りの子供が、こちらの心境を慮って敢えてそのような返答をしたとも思えない。
 そしてあまりの邪気のなさに思わず、率直な感想を漏らしてしまう。
「…儂は珍獣か」
「チンジューてなに?」
「もうよい」
 庶民とは物見高いものだ。そして子供は遠慮がない。仕方ない仕方ないと自分に言い聞かせ、台所へ向かった二人と別れた政宗は足音高く座敷に踏み込んだ。


***


 政宗が座敷に上がると、阿国が茶を入れていた。どかりと座った政宗の前に湯飲みを差し出してにっこりと笑う。
「まあちゃんいらっしゃい。久し振りやねぇ」
「まあちゃんはよせと何度云ったらわかる!」
 何度云っても『まあちゃん』呼ばわりをやめない阿国に、無駄と知りつつも律儀に訂正してしまう政宗であった。そしてこのやりとりは、政宗にとっては不本意な事ながら、二人にとってすでに挨拶代わりのようなものになっている。
 だが、今日の阿国はいつもとは違った。じいっと政宗を見つめ、少し首を傾げると云った。
「お腹空いてんの?」
 別に顔に『空腹』と書いているわけでもあるまいに。それに、政宗はさほど腹が減っているわけでもない。政宗は面妖なことを云う、この掴み所のない女にとりあえず理由を聞いてみることにした。
「何故そのような事を訊く」
「なんやえらいイライラしてるみたいやから。お腹空いたんかなぁ、て」
「…」
 表での言い争いがここまで聞こえていたのだろうか。黙り込んでしまった政宗の耳に、ぺたぺたと廊下を歩いてくる軽い足音が聞こえてきた。開け放された障子に、小さな影が映っている。

 障子の影から現れたのは、当然だが『孫市』だった。何が楽しいのか、にこにこと笑っている。政宗の前に座る。
「はい、おにりり」
 小さい手に乗っかっている皿の上には、俵型の握り飯が3つ。どうやら出来立てのようで、まだ湯気が立っている。横にはちょんと沢庵も添えられていた。
 それを『孫市』はそおっと政宗の前に置き、自分もいそいそとそこへ座った。
「ゆきむらあんにゃんのおにりりおいしいねんで。こぉこもおいしいで?」
「…」
 先ほど門の前で起きたことなど忘れてしまったかのように愛想がいい。それより何より、日本一の兵は握り飯を作るのが上手とは。この事はあの武田信玄も知らなかったであろう。
 別に知りたくもなかった幸村の意外な特技に思いをはせていると、不思議そうな視線が下から向けられる。
「あれ? おとのさまはおにりりたべへんの?」
「…喰う」
 何だかんだ云いつつも大人しく握り飯を食べ始めた政宗の目の前で、阿国が『孫市』の小さい鼻をちょんちょんと突いた。
「違うでしょ孫ちゃん。おにりり、やなくておにぎり」
「おにりり」
 少しも治っていない。今度は一語一語を切るように、ゆっくり阿国は繰り返す。
「お、に、ぎ、り」
「お、ぎ、ぎ、り?」
 『孫市』も素直に反芻してみせるが、少し違う方向に向かってしまっている。
「お、に、ぎ、り」
「お、に、じ、り? …いいにくい〜」
「…ま、解るからええけど。孫ちゃんも食べたら?」
 いまひとつ不毛な感が拭えないやりとりに終止符を打ったのは阿国の方だった。一応、かなり近付いてはいたのだが。
 元々下がっている眉尻をもっと下げ、困った表情をしていた『孫市』は、食べる話になると途端に笑顔に戻る。
「いまけぇじがつくってくれてる〜」
 その言葉を聞いて、古今無双の傾奇者と日本一の兵が並んで握り飯を握っている光景を想像し、政宗はぶるぶると首を振った。ひとたび槍を握れば鬼神の如き働きをする二人が今台所で握っているのは、この泥棒見習いのような子供の昼飯なのだ。戦国の領主としての立場から云わせて貰うと、壮大な無駄である。
 それでももぐもぐと口を動かしていると、またじいっと下から覗き込まれた。ごくりと茶碗の茶を飲み干して、政宗は自分を見ている大きい目を見返す。
「…何だ」
「おにりり、おいしいやろ〜?」
「…」
 えへら、と笑うと目が無くなる。つい、可愛いと思ってしまった。その事実に気が付いて、どんな表情をして良いものやらと迷っていると、遠くから慶次の声がする。
「孫市ー」
「は〜い、なに〜?」
 名指しで呼ばれて、返事をしながら立ち上がった『孫市』はぱたぱたと走り去ってしまった。あとには阿国と政宗だけが残される。空になった茶碗に茶を注いでやりながら、阿国はうふふと笑った。
「孫ちゃん、えらい可愛らしなったでしょ」
「それだ」
 ごくん、と最後の握り飯を飲み下し、政宗は阿国の差し出した茶碗を取った。
 はっきり言って異常な事態の筈なのに、何の説明も受けていない政宗としては当然の疑問を阿国にぶつける。
「まあ百歩譲ってあれが孫市だとして、だ。どこをどうしたらあんなのがあんなのになるというのだ」
「それは話せば長いことなんやけど。…聞きたい?」


 思わせぶりな事を云う阿国に向かって、頷きつつ政宗が身を乗り出したとき。再び、廊下をぱたぱたと走る足音が近付いてきた。







 うーん、何か引っ張る終わり方。すいません、続きます。
 ちびの室内での足音はぺたぺた。走るとぱたぱた。あぶら足?(笑)

 「おにぎり」という呼称は、ここで覚えたことにしておいてください。いや、和歌山では違う呼び方すると聞いたので。
 ひょっとしたら「こぉこ(香の物)」も和歌山では使ってなかったりして。京都大阪出身者(年寄り)が口頭で言うのしか聞かないので、字が解らないのですが。