今日も納豆抜きの朝食を終えた前田組の面々は、それぞれの定められた任務に就いていた。本日の任務は、阿国が洗濯、五右衛門と幸村は食事の後片付け。そして慶次と孫市の任務は掃除である。

 慶次は手桶に水を汲みに行き、孫市は裏に干してある雑巾を取りに行く。玄関の上がり口で合流したふたりは、とりあえずは黙々と掃除を始めた。
 床に這いつくばって雑巾がけをしている七尺の大男という絵柄もなかなか面白いが、大きいのと小さいのが一緒に拭き掃除をしているのがまた妙である。大きい方はぴんと立った前髪を、小さい方は大きな帯結びををそれぞれ揺らしながら廊下を行ったり来たり、着実に任務を遂行していく。
 だが、そのうち孫市のきゃあきゃあという嬌声と、どたばたと五月蠅い足音が井戸端にいる三人にまで聞こえてきた。少しでも楽しく早く掃除をしようと雑巾がけ競争が始まったのだが、状況の見えない三人にはそこまではわからない。ただ、大騒ぎをしつつ遊んでいるらしいという事は十分にわかる。五右衛門はタライから顔を上げてつぶやいた。
「えらく賑やかだなぁオイ」
「孫ちゃんの声はよう響くから。ふたりで追いかけっこでもしてるんやろか」
 食器洗いはすでに終了しており、手の空いた五右衛門は洗濯を手伝っている。幸村も食器を片付けたら掃除に合流する予定になっていた。
 阿国さんとひとつタライで洗濯、という状況は五右衛門にとって非常に喜ばしい事態であるらしい。にこにこと笑顔が絶えないのはその証拠である。そんな姿に苦笑しつつ、幸村は洗い終えた茶碗を手に取り、布巾でひとつひとつ丁寧に拭いている。
「しかし、前田殿もよく体力が続くなあ」
 幸村は半日も孫市と遊んだら疲れ果ててしまう。その分夜に熟睡できるからいいといえばいいのだが、子供は子供同士遊ばせておくのが大人のためだと最近しみじみと感じているのだ。
 それだけに、四六時中一緒にいる慶次が一向にくたびれた様子がないのに驚き、かつ感心している。かちりと最後の茶碗を置いた幸村に、自分の足袋をごしごしと擦っていた五右衛門は同意した。
「全くだ。しかしよぉ、いつになったら孫市の奴、元に」
 五右衛門がそう言いつつ手の中の洗濯物をぎゅうっと絞ったその時。

 突然、どかんと大きな音がした。

 何事か、と三人は顔を見合わせた。
 そして数秒の静寂の後、わー、と孫市の泣き声がする。三人は立ち上がり、音のした方角へと向かった。


***


 わあわあと孫市が泣き続けているので、現場の発見は容易だった。
 いつも慶次と孫市が寝ている部屋の前、縁側に胡座をかいた慶次の首っ玉にがっちりと縋り付いて泣いている孫市と、襖に空いた穴。穴の位置は床から一尺ほどだ。慶次はああ痛かった、痛かったと云いつつ、孫市の前頭部を手で覆っている。
 この状況から推察するに、床拭き競争で興奮しすぎた孫市が、勢い余って襖に激突したものと思われた。ぽこりと開いた穴の中央には襖の桟があり、当たり所が悪かったらしいという事がわかる。
 阿国は孫市の前に膝をつき、ぼろぼろと涙を流す頬を懐から出した手拭いで拭った。
「孫ちゃん、どうしたん?」
「…あういぇあおうあう〜〜…」
 理解不能の返事が返ってきた。当然といえば当然である。
 泣いている本人に質問する阿国の神経も問題だが、とにかくぶつかった頭の様子が気になる。五右衛門は、間違いなく衝突時の状況を知っている筈の慶次に聞いてみることにした。
「おい慶次、どうなってんだ」
 ところが、慶次から帰ってきたのは事故状況ではなかった。
「見てないからよくわからんが、凹んでる」
「凹ん…」
 凹む、というのはどの程度なのか。それを想像して思わず五右衛門が黙ってしまうと、幸村は無言で踵を返した。おそらく傷を冷やすための桶と手拭いでも用意しに行ったのだろう。つくづくよく気の付く青年である。
 阿国が傷の様子を見ようと、そっと慶次の手を外そうとした。が、孫市の小さな手がばたばたと邪魔をする。
「いややいややいややぁ〜!」
 じたばたと地団駄まで踏んで怒っている。どうも傷を見られるのが怖いらしい。
 おそらく本人は頭が割れてしまっているぐらいに思っているはずだ。根拠は不明だが、もし見せて『あ、割れてる』などと云われたらとんでもないことになりそうな気がしているのだろう。云われなければ大丈夫、というものでもないのだが、そこは気の持ちようというやつだ。
「前田殿、これを」
 水を張った桶に手拭いを入れて戻ってきた幸村は、それを緩く絞ると慶次の空いている右手に握らせる。孫市が厭がって暴れるような隙を与えず、慶次は手早く孫市の頭に手拭いを乗せた。びちゃりと音をさせた手拭いからは絞り残した水が垂れ、真っ赤になった孫市の顔にたらたらと何本も筋を作って落ちていく。
「冷やさないと治らないからな。気持ちいいだろう?」
 慶次に優しく背中を叩かれているうちに、孫市の泣き声は徐々に大人しくなる。
 両目にいっぱいの涙を溜めたまま、ようやく孫市は静かになった。がっちりと慶次の首に縋り付いていた手を放し、促されるまま慶次の左腿に腰掛けた。まだ完全に泣きやんだ訳ではないので、時折くすんくすんと鼻をすする。右手を慶次の腰に回し、ぴたりとくっついてくる孫市の真っ赤な鼻を、慶次はちょいちょいとつついた。
「そろそろ見せちゃくれないかねぇ」
 そう云われた孫市は、慌てて両手で手拭いを覆って首を振る。その拍子に、遠心力で涙がぽろんと頬に飛んだ。阿国は懐からお花紙を出してそれを拭いてやる。ついでにそれを孫市の鼻に当てた。
「はい孫ちゃん、ふんして」
 孫市は云われるままにふん、と鼻をかむ。何度か紙を替えて繰り返すと、少しすっきりしたのだろう。再び慶次に寄りかかって、ふう、と溜息を吐いた。だが、手拭いを防御する手は降ろさない。
「せめて手拭いを替えたいんだがなあ」
「…いやや」
 慶次の少し譲歩した申し出にも、ふるふると首を振って拒絶する。それでもまだ会話が成立するようになっただけマシだ。
「見ねえから」
「みえるもん」
「見えないようにするから。俺が嘘吐いたことがあったかい?」
 少し考えて、孫市はゆっくりと両手を降ろし、観念したように目を閉じた。よしよし、と濡れた髪を撫でてやってから、慶次は左手で手拭いごと覆い隠すようにして手拭いを抜き取る。ぽい、と五右衛門にそれを放ると、右手を隙間に滑り込ませて傷に触れた。
 桟に直撃した部分はまだ窪んではいるが、全体的に腫れ始めている。瘤になるなら大事には至らない。痛くないようにそろりと触れていた筈だが、孫市が悲鳴を上げた。
「いたいっ」
「ああ、悪い悪い。ても、血も出てないしちょっと腫れてきたみたいだから、もう大丈夫だ」
 慶次の言葉に大人達はほっと胸をなで下ろしたが、一対の疑いの眼差しが下の方から向けられる。
「嘘だと思うなら、自分で触ってみな」
 余裕の笑顔でそう云われ、暫くの逡巡の後。そ、と小さい手が頭に向かう。慶次の手の下からこそりと手を入れ、神妙な顔のまま黙って傷を撫でる。ややあって、孫市がぽつりと云った。
「たんこぶふたつできてる…」
「だろ?」
 正確には若干谷間のある瘤ひとつなのだが、孫市はふたつの瘤が並んで出来ていると感じたようだ。瘤から離れた小さい手と入れ替わるように、再び水で冷やされた手拭いが前頭部をを覆う。
 頭が割れてしまった訳ではないことを自分で確かめた孫市は、両腕を慶次の胴に回してぴたりとくっついた。ようやく安心して、少し甘えたい気分になったらしい孫市を片腕で抱え込むようにして、慶次は孫市の目尻を指で拭ってやった。
「今日は一日冷やしておくか。たまには家で大人しくしてるのもいいだろう」
 黙ったままこっくりと頷いた孫市に、五右衛門は大仰に両手を広げて見せた。
「なんでぇ、驚かすなよ孫市〜。俺ら三人とも井戸端から跳んできたんだぜ?」
「…ごめんなさい」
 妙に素直に謝られて、五右衛門は居心地が悪くなったらしい。胡座をかいたままもぞもぞとにじり寄り、孫市の頬を撫でて困ったような笑顔を見せた。
「謝るこたぁねぇけどよ。で、なんでまたあんなに派手にぶつかっちまったんだい?」
「けぇじがこけてん」
 間髪入れずに返ってきた答えに違和感を感じ、五右衛門は非常に短い言葉で訊き返してみることにした。
「あ?」
 だが、孫市の口から再び出てきた言葉は、やはり意外性のあるものだった。
「けぇじがこけたから、かてるとおもて」
 頭の中でその言葉を反芻してから、全員がいっせいに慶次を見た。珍しいこともあるものだ。皆の顔にそう書かれていて、慶次は照れたように頭を掻いた。
「いや、裾踏んじまってよ」
 そして、事件の顛末をふたりは語り始めた。


***


 慶次は孫市相手でも勝負に負けてやることはない。何をやっても、どれだけ手心を加えても最後には絶対に勝つ。だから今日の雑巾がけ競争でも、慶次はもちろん全勝していた。
 ところが、孫市もただ負け続けていたわけではない。小さくても負けず嫌いの孫市は、虎視眈々と勝利の方法を探っていたのだ。

 ふたりは着物の裾をからげて帯に挟み込み、邪魔にならないようにして掃除をしていた。だが、動いているうちに少しずつ弛んでいたのだろう。五度目の競争が終わって立ち上がった孫市の、着物の裾がはらりと落ちた。孫市は再びしっかりと裾を帯に挟み込みながら、何気なく縁側で雑巾を漱いでいる慶次を見た。
(なんかけぇじのもおちてきそうやなぁ)
 慶次の帯に挟まっている裾も、ほんの端っこだけで全体を支えている状態だった。あと二,三回も競争したらさっきの孫市のように、自然に裾は落ちるだろう。だが、当の慶次は全く気が付いていないようだ。
 だから孫市は、六度目の競争の直前に、慶次の着物の裾をちょっと引っ張ってみたのだ。すると思った通りに裾がぱらりと落ちたが、たまたま雑巾の縫い目のほつれに気を取られていた慶次は気付かない。
(…だまっといたろ。これでちょっとはユウリになるんかなぁ)
 孫市は素知らぬ顔で、慶次から漱ぎ終わったほつれのある雑巾を受け取った。そして、慶次をちらりとも見ずに位置に着いた。無論、ちらちらと見ることによる発覚を防ぐためである。
 そして競争が始まると、案の定慶次は思わぬ伏兵を踏みつけて転倒した。これこそ好機、である。慶次が立ち直るまでに勝負を決めようと、孫市は速度を上げた。
そして。
(やったぁ! …あ、わぁ〜っ!!)
初勝利に喜んだのもつかの間。速度を上げてしまった孫市は残された距離では到底止まりきれず、襖に激突したというわけだった。それがまた見事に桟のあるところで、ふたこぶたんこぶが出来る仕儀にあいなった、ということらしい。


***


 結局原因は、雑巾がけ競争における孫市の不正にあったことがわかった。事情聴取を終えた五右衛門は、腕組みをしてうんうんと頷きながら総括した。
「人を呪わばこぶ二つ、ってことだな」
「うまいことまとめたねぇ」
ほんの少しの沈黙の後、ぷ、と阿国が噴き出した。それを合図に大人達はげらげらと笑い出す。大人達が何故笑っているのかわからない孫市だけが憮然としつつ、くかぁ、とひとつ欠伸をした。







掃除当番・拭き掃除編です。前田組の組事務所(違)は板張り部分が多いです。畳も込みで、全部拭ける床ですね。拭き掃除のしがいがあります。
しかし裾をからげた慶次…褌チラ? ポロリはありません(__;) 見たくないし。
次回はとうとうあの人が登場予定。前田組、最後のひとりです。