
「…おおっ、と」
五右衛門が障子を開けると、そこには慶次が大の字になって転がっていた。ぐうぐうと本格的に鼾をかいているその胸に折り重なるようにして、孫市が俯せになっている。こちらも熟睡しているのか、ぴくりとも動かない。
親亀の上に子亀を載せて、という言葉を思い出す。残念ながら孫亀も曾孫亀もいないが。
「ったく、しょうがねぇなぁ…」
俯せの孫市を抱き上げて仰向けにすると、慶次の胸元が変色しているのが見て取れた。子供というのは元々唾液の分泌量が多く、かつ口の締まりが悪いものだ。それを俯せのまま抱いて寝たのでは、着物が涎でべたべたになるのは目に見えている。案の定濡れてしまっているそれは自然乾燥に任せるとして、体勢が急に変わって覚醒しかけた孫市を、五右衛門は慶次の脇に寝かせた。
「…ん…」
起きているわけでもないのに、迷いもせずにすす、と慶次の寝ている方に寄っていく能力は凄いと五右衛門は思う。自分が置かれたのが右か左かなどわかるものなのだろうか。慶次の腋にもそもそと顔を埋めるようにして──おそらくこの昼寝から起きる頃には、慶次の腋の下はびちゃびちゃになっているに違いない──動きを止めた孫市を、まるで見ていたかのように慶次が抱え込む。
ふう、と溜息を吐いて、五右衛門は孫市の脇に腰を下ろした。
こうして寄り添って眠る姿を見ていると、まるで本当の親子のようだ。ぴょこんとこちらに向けられている孫市の足を握り、そろそろと足の指を指の腹で撫でながら、五右衛門は孫市のことを考えた。
本当は、家族の中で育つのが一番いいのだろうと思う。子供は大人が思うより聡い生き物だ。孫市も存外いい子にしているが、親のいない暮らしの中で、少し我慢をしているようにも見える。
だからといって、雑賀庄に連れ帰ったから一件落着、というわけでもない。生まれ故郷に戻っても、小さな孫市の知る家族はもういない。二十年の年が過ぎて年老いた母はともかく、父はもういない。優しかったという兄たちもとっくに大人になっている。小さな孫市に、残酷な現実を突き付ける気にはなれない。
幸い戦も殆ど終わり、ほぼ徳川の天下で間違いないだろう。もう砲術など覚えずにここで育ってもかまわないのではないか。戦で家族を失った浮浪児とは違い、孫市には自分達がいる。いつまで五人一緒にいるかはわからないが、将来誰も孫市の面倒が見られないのなら、自分が引き取ってもいいと五右衛門は思っている。
───しかし、他の連中はどう思ってんだ?
おそらく慶次は孫市を手放すことはないだろうが、生まれ育った土地へ戻してやる方がいいと思う者もいるだろう。そろそろ一度、みんなでちゃんと話をしておいた方がいいだろうか。
考え事をしていたら不意に、握っていた足がひゅいと逃げた。はっとして目を落とすと、孫市が眠そうな顔をして座っていた。
「…おいやんどしたん?」
声まで眠そうだが、目をごしごしと手の甲で擦っている。懸命に起きようとしているらしいのがその仕草でわかった五右衛門は、小さな頭を分厚い掌で撫でた。
「わりぃなあ、起こしちまったか」
「しーっ」
孫市は右手の人差し指を唇の前に立て、もう片手でぴこぴこと、珍しく起きる気配もなく熟睡している慶次を示した。よっこらしょ、と小さく呟いて立ち上がった孫市は、五右衛門の手を引いた。
「けぇじがおきるから、おにわへいこ?」
五右衛門も立ち上がり、孫市を抱き上げる。そして大泥棒の本領を発揮して抜き足差し足、音も立てずに外へ出た。
庭には昼間の太陽が降り注ぎ、孫市は眩しそうに目を眇めた。だが孫市を抱いたまま五右衛門が門をくぐろうとしたところで、不審の声を上げる。
「どこいくん?」
「慶次が起きる頃にはおやつの時間だ。団子でも買いに行こうぜ」
団子は孫市の大好物である。団子、と聞いた瞬間に目が覚めたのか、さっきまで眠そうだった大きな目が一転、きらきらと輝き始めた。
「うん!」
***
孫市は慶次の次に五右衛門の抱っこが好きだ。五右衛門のアンコ型の体型は密着度が高い為、自然に安定もよくなる。幸村もしっかり抱いてはくれるが、抱かれ心地がいいのは断然五右衛門である。
だが今日は途中から肩車に変更になった。孫市が裸足で出てきたので、五右衛門は自分の腕が疲れにくい方法を採ったのだ。孫市は肩車も好きなので、別に異存はない。それに五右衛門の肩車は慶次の肩車と違い、視界を遮るものもない。寝起きの割りにはかなりご機嫌に、ふたりで歌など歌いながら団子屋への道を行く。
「なぁおいやん?」
孫市は、歌の切れ目に五右衛門の月代の毛を軽く引っ張った。機嫌良く鼻歌を歌っていた五右衛門は、大きな目を剥いて孫市を見た。
「何だい」
「おいやんはおねやんとけっこんせえへんの?」
ぶふっ、と五右衛門は盛大に噴き出した。
「なっ…何でぇ薮から棒に。おっ、おっ、阿国さんと、この俺様が…」
子供ならではの爆弾発言をぶちかました孫市は、五右衛門のあまりの動揺っぷりに小首を傾げる。阿国の仕草がうつっているのだが、それがどのくらい似ているのかは真下にいる五右衛門にはわからない。
「おいやんはおねやんのことすきなんとちゃうの?」
孫市にしてみれば不思議で仕方がない。好きだと思えば好きだ、と云ってしまうのが孫市という人間である。大人になっても多少、いやかなり言い回しが気障になっただけで、根本は同じだ。
だが、子供の孫市から見ていても、五右衛門の不器用な愛情表現はどうにも歯がゆいのである。
「あ、ああ。でもなぁ、大人にはいろんな事情ってもんがあるんだぜ?」
声が裏返ったままの五右衛門は、『大人の事情』で誤魔化そうとした。だが孫市の追及の手は弛まない。
「ふーん…おねやんにいややてゆわれたん?」
「そ、そうじゃねぇけどよ」
何でこんな所でこんな小さな子にこんな事を問いつめられなければならないのか。楽しかったはずの道行きがすっかり冷や汗の時間になってしまった五右衛門は、団子屋の姿を認めてほっと安堵の溜息を吐いた。孫市も目先の団子に心を奪われたのか、それ以上突っ込んでくることはなかった。
***
「おばちゃんおらんごちょ〜らい!」
「あらいらっしゃい。今日は五右衛門さんと一緒なんだねぇ。いつものでいいんでしょ?」
「おう、頼んだぜ」
団子屋の看板娘は、五右衛門から見るとまだおばちゃんという年齢ではない。だが、実は孫市より大きな娘がいるらしい。彼女は五右衛門の返事も待たずにみたらし団子を四つ、三色団子をひとつ竹の皮に包んでくれる。三色団子は孫市専用で、こうして包むとみたらしの甘いタレがとろりと付くので丁度いいらしい。
「いまな、けぇじおひるねしてんねん」
「孫ちゃんはお昼寝しないの?」
「ぼくはとちゅうでめぇさめてん。そやからおいやんとおらんごかいにきてん」
五右衛門は懐から小銭を出し、差し出された白い掌に置いた。引き替えに貰った団子の包みを五右衛門はぶら下げて、ふたりは回れ右をして帰路につく。
「ほなおばちゃんまたな〜」
満面の笑顔を浮かべた孫市は、ひらひらと五右衛門の上から手を振った。
***
団子屋から少し離れたところで、孫市はにゅうと五右衛門の顔を覗き込む。
「おいやんがようゆわんのやったらぼくがゆうたろか?」
「…」
どうやら追求を忘れてくれたのではなく、中断していただけらしい。思わず皺が寄ってしまった眉間を、孫市が指先でごしごしと擦る。皺を伸ばそうとしているらしいことはわかるのだが。
「おいやんがしっかりしてくれな、ぼくがこまんねんけど」
そう云って大仰な溜息を吐いた孫市は、腰が痛くなったのか上体を元に戻した。しかし孫市の意図が今ひとつわからない。五右衛門は真っ直ぐに聞いてみることにした。
「何でだい」
「だってな、おねやんがけぇじとけっこんしたい、ていいだしたらこまんねん」
「…そうだなぁ。俺様も困る」
妙に熱心だと思ったらそういうことか。五右衛門は納得し、かつ賛同した。五右衛門も阿国を慶次に奪われたくはないし、孫市も慶次を阿国に独り占めされたくないのだ。見事に両者の利害は一致している。
ようやく眉間の皺が解けた五右衛門は、とりあえず孫市の見解を訊いてみた。
「なぁ孫市。慶次はいいって云うと思うか?」
「…わからんけど。おねやんきれいから、けっこんしてゆわれたらええよ、っていいそうなきがすんねん」
確かに、孫市がそう思う程度にはあのふたりの雰囲気はいい。五右衛門の見解はまた違うのだが、現段階では油断出来ないと思っている。
「うちのおかちゃんとおとはんもぼくといっしょにねてくれへんねん。せやから、ぼくいっつもあんにゃんたちといっしょにねてんねん。ぼくおねやんのこともすきやけど、けぇじがぼくといっしょにねてくれへんようになるやん?」
「…多分な」
万が一夫婦になるとしたらそうだろう。意見を肯定されて、孫市はぶるぶると勢いよく首を振った。そうとわかるぐらいに五右衛門の肩に乗った孫市の腿が揺れている。
「そんなんいやや。だからな、おいやんがおねやんとけっこんしてくれたらぼくもけぇじといっしょにねられんねん」
「孫市…おめぇさん若いわりに策略家だな」
「サクリャクカてなに?」
見上げた先では孫市が小首を傾げていた。阿国の癖を真似ている孫市に何でもねぇよ、と答えながら、五右衛門は遠くに立つ松風の姿を認めた。その隣にはひときわ大きな人影が見える。
「今の話、他の奴にはするなよ?」
「うん。おとことおとこのやくそくな!」
太い指と小さい指でこちょこちょと指切りをすると、共犯者ふたりは何事もなかったように、慶次に大きく手を振った。
さてようやく五右衛門です。が、これはあんまりらぶらぶではないなぁ。ちびに気圧されてます五右衛門。とにかくちびは慶次と一緒に寝たいんです。
ちびの将来を真面目に心配するおいやんが書きたかったのです。ちびは唯我独尊ですが。心配しがいのない子供だ(^^ゞ
よくよく考えると慶次とくっついて寝ているシーンは初めてかも。そうそう、慶次は昼寝から起きてすぐに着替えてます(^_^)