
「ゆきむらあ〜んにゃん、あ〜そ〜ぼ〜?」
小さな足音が、とてとてと近付いてくる。幸村は書物に落としていた視線を上げ、すぐ目の前でぱたぱたと袖を振っている声の主を見た。大きな目にじっと見つめられ、つい笑顔を返してしまう。
「前田殿は?」
「けぇじはまきわりするからあぶないからあんにゃんとあそんどいでって」
ぼくもやるってゆうたのに。そう云って孫市は、不服そうに頬をふくらませた。何でもやってみたい年頃だから当然といえば当然だが、ここの家には孫市が持てるような斧はない。しかし、薪割りはさほど危険な家事ではないと幸村は思う。
ひょっとしたら、慶次も薪割りにかこつけてひとりになりたいのかも知れない。なにしろ四六時中この孫市につきまとわれているのだ。そう思った幸村は、読書を後回しにして孫市と遊んでやることに決めた。
「そうか。じゃあ、何をして遊ぼうか」
「ん〜と、かわなかじまのかっせんごっこ!」
そういう遊びは、二人でやったら信玄と謙信しかいなくなってしまう。この場合、信玄が幸村で、孫市が謙信である。
この『川中島の合戦』という大層な名前のチャンバラごっこをする時、孫市は何故か謙信役をやりたがる。どうやら謙信の唱える真言が気に入ったらしい。
「おんべいしらまんらやそわか!」
そう云いつつ、式神代わりの木の葉を投げては嬉しそうにしているのである。舌が回りきっていないのはご愛敬。七支刀に見立てた木の枝を振り回し、近頃よく庭を走り回っている。頭には風呂敷を頭巾代わりに巻いている。
勿論信玄役は節分に使う鬼の面をかぶらなければならず、武器は金魚の絵が描かれた団扇という決まりがあるのだが、またそれは別の話。
「それは…ふたりでやってもつまらないんじゃないか?」
折角遊んでくれるという相手の意見に、孫市はうーんと考えて、もうひとつの好きな遊びを挙げた。
「じゃあきのぼり!」
庭に生えている立派な楠の、てっぺんまで登るのが孫市は好きだ。そして、一緒に木登りをして遊べる大人は幸村だけである。後の二人は重すぎて、庭の楠には文字通り荷が重すぎる。自然、幸村とふたりで遊ぶときの木登り頻度は高くなる。
「よし、では行くか」
書物を仕舞い、立ち上がった幸村の手に飛びつくようにして、孫市は手を繋いできた。
「うん!」
ふたりは手を繋いだまま、まずは井戸の所まで来る。孫市の自由な方の手には、少し大きな瓢箪がある。ここに水を入れておいて、木の上でゆっくり飲むのだ。
幸村が釣瓶を落とし、水を汲み上げるのを孫市は身を乗り出して覗き込んでいる。ここの井戸は深いから、子供が落ちればひとたまりもない。が、孫市は一向に頓着した風ではない。冷たい水を湛えて上がってくる桶を、早く掴もうと手を伸ばしている。どうやら、どんな危険な事があろうと、自分だけは大丈夫と思っているふしがある。子供らしいと云えばその通りだが、大人の目から見ると危なっかしいことこの上ない。
「落ちるなよ?」
「だいじょ〜ぶ!」
するすると上がってきた桶の柄を、待ちかねていた小さな手が掴む。それを幸村の手が支えて持ち上げ、無事水汲み自体は完了した。冷たい水が満たされた桶の中に瓢箪を沈め、ぶくぶくと泡が出終わるのを待つ。
やがて泡が止まり、水が満たされた瓢箪に栓をして、幸村はそれを腰に下げた。ふたりで余った水を井戸に戻し、次はいよいよ木登りである。
よいしょ、と孫市は最初の枝に這い上がった。木が大きいだけに、孫市は自力で最初の枝に登ることは出来ない。毎回幸村に持ち上げて貰うのだ。孫市を乗せたらすぐに幸村も腕の力だけ、懸垂をするような要領で上がってくる。その間にも孫市はどんどん上に向かっている。
木の中程には、幸村でもゆっくり座れるほどしっかりとした枝がある。そこから上は枝がどんどん細くなっていき、孫市のまさに独壇場である。
自分が子供の頃は、どうだっただろうか。あんなに先まで登っていただろうか? 幸村は幹に寄りかかって座り、上を見上げた。がさがさと木の葉が揺れ、かなり高い場所まで登っているはだかの足が見える。
「あ、けぇじや」
その声に家の裏手を見下ろすと、葉と葉の間から物凄い勢いで薪割りをしている慶次が見える。幸村などは薪を割るのに必要なだけの力しか使わないので、薪はその場でぱかんと割れる。が、慶次の場合は斧を勢いよく振りすぎる。薪は勢い余ってはじき飛ばされて、実に一間ほども飛んでいく。
確かにあれでは、孫市が傍で見るのは危ない。口実ではなかったのだなと、幸村は変なところで感心した。
「け〜じ〜!」
孫市ががさがさと掴んでいる枝を揺すってみせると、振り仰いだ慶次が笑って手を振る。おそらく、慶次からはこっちは見えない。が、おそらく孫市がしている表情まで手に取るようにわかっているに違いない。
「まだおわれへんの〜?」
慶次は何も言わず、薪の山を指差した。幸村が見る限り、まだ半分といったところだろうか。孫市もそう思ったようで、すぐ終わりにしろなどという我が侭を云うことはなかった。
「おわったらあそぼうな〜!」
がさがさがさがさ、と木が揺れる。どうやら手を振る代わりらしい。再び慶次が薪割りを始めたのを確かめると、孫市はするすると幸村の所まで降りてきた。
少し汗をかいている。手ぬぐいを出して額を拭いてやるが、髪もしっとり濡れてしまっている。幸村は元結いの赤い紐を解き、手櫛で髪を整えてやった。紐はなくさないよう、孫市の帯に結んでおく。
「あんにゃん、おみるのみたい」
幸村の上にまるで座椅子に座るように座った孫市は、瓢箪の水を催促する。喉が渇いていると云うより、『木の上でのんびりと水を飲む』という行動が好きなのだ。幸村もそれは同感だ。腰に結わえた瓢箪を外し、孫市に渡してやる。
「はい、どうぞ」
「ありがと〜」
両手で受け取った瓢箪の栓を抜き、孫市はごくごくと喉を鳴らして水を飲む。
「…っ、あ〜おいしい!」
栓を抜き、ごくごくと喉を鳴らして水を飲んだ孫市は、はい、と幸村の手に瓢箪を返す。幸村も少し喉を潤してから栓をし、腰に結わえ直した。その間孫市は大人しく、葉っぱの向こうに透ける景色を見ている。
「おひさんがきらきらしてきれいや」
「ああ」
両足をぴんと突っ張り、ぴょこぴょこと上下させる。いかにも子供らしい仕草に、幸村は孫市が落ちないようにと胴を抱えた。
「ええてんきやしけぇじはあそんでくれへんけどゆきむらあんにゃんがきのぼりしてくれたし」
「てっぺんまで登ったし汗もかいたし水も飲んだし」
えへへ、と笑った孫市は、ふうとため息をついて伸ばしていた足をだらんと降ろす。
「いろんなことして、なんかねむたなってきたなぁ」
「…ああ」
しばらくじっとしていた孫市が、急に重くなった。顔を覗き込むと案の定眠っている。もう一度きちんと孫市の胴を抱え直して、幸村も目を閉じた。
僅かな風がさわさわと木の葉を撫でて行き、光をかき乱しているのが閉ざした瞼越しにもわかる。膝の上の重みと温かみが心地よく、意識がぼんやりとしてくる。
***
薪割りを終えて、散らかりまくった木片を全て片付けた慶次は、先程がさがさと揺れつつ甲高い声を発していた楠の下までやってきた。見上げると、幸村が座っているのが見える。その足の両側から、小さな裸足の足がぶらりと下がっている。
「おーい」
声をかけたが返事はない。慶次は両手を伸ばし、試しに一番下の枝にぶら下がってみる。が、何だか枝が苦しそうなので登るのはやめにした。もし折ってしまったら、今度は梯子でも持ってこない限り木登りが出来なくなる。そうなると孫市に叱られるのは火を見るよりも明らかだ。
「ま、たまには俺ものんびりするかね」
慶次は楠の根方にごろりと横になる。近頃は大抵孫市と一緒に昼寝をしているから、このくらいの時間になると勝手に眠くなってくるのだ。傍らに小さな温もりがないのが物足りない、と感じた自分に、慶次は苦笑した。
どうやら、俺はあのおちびさんに魅入られちまったみたいだねぇ。
きらきらと眩しい木漏れ日の下、慶次も樹上のふたりと同じように目を閉じた。
あんにゃんと仲良し編です。最後に慶次が出しゃばってきてしまいましたが。
木の種類が楠なのは、私が小学生の頃登りまくっていた近所の公園の木が楠だったからです。揺すったら折れそうな所まで登ってましたね。地上7mくらいだったでしょうか。
残すはおいやんのみ。おいやんはと何して遊びましょうかね。あ、慶次も遊んでないか。