
実は、食事中から気になっていた。厠から戻る途中にちらりと見た馬の姿の事である。
(えらいおおきいおうまさんやなぁ)
今まで孫市が見たことのある馬は殆どが農耕馬で、あまり見ることのない乗馬も小柄な馬ばかりであった。だがそれは遠目にちらりと見ただけでも巨大な馬だった。
(なんぼほどおおきいか、すぐちかくでみてみたいなぁ)
空腹を抱えた孫市は、食事が終わればすぐに見に行こうと思っていたのだ。だが、慶次の膝を降りて土間の手前まで来たものの、当然子供の足に合うような履き物はない。
(…ま、ええか)
大人、特に阿国から叱られるかも知れないとはちらりと思ったが、好奇心には勝てずに裸足のまま土間に降りる。引き戸に手をかけると、木の戸は思ったより簡単に開いた。だが小さな子供にはやはり重い。孫市は何とか自分ひとりがようやく通れるくらいの幅だけ開けて外へ出ると、門の近くにいるはずの問題の馬に向かって走り出した。
***
目を閉じてくつろいでいた松風は、近付いてくる小さな気配を感じて振り返った。見たことのない小さな子供がまっすぐ走ってくる。
松風は、この家の警備責任者を自認している。おおらかな主と暢気な居候達を守るのが己の使命と、少しでも異常を感じると侵入者を蹴り殺さんばかりの勢いで追い出しにかかる。
警備責任者としての視点で見ても、外部からではなく家の中から走ってくる子供にもちろん敵意は全くなく、むき出しの好奇心だけがあふれ出ている。今日は朝から、大人ばかりが暮らしているはずの屋敷の中から何故か子供の泣き声がするのを聞いていたから、これがあの泣き声の主だと判断して蹴り飛ばすのは止めた。
松風の足下まであと5,6歩の所で立ち止まったこの小さな生き物を間近に見た松風は、どうもこの子に見覚えがあるような気がしてきた。好奇心できらきらしている大きな目は目尻が眉ごと下がっていて、髪を後ろに束ねている。物怖じひとつせず、子供の顔をよく見ようとした松風の、手の届く位置に降りてきたその鼻面をぺたぺたと触り、そろそろと撫で始めた。
「おうまさん、おとなしなぁ。ええこやなぁ。なぁ、ぼくのことすき?」
全開の好意を声からも言葉からも態度からも手つきからも感じる以上、嫌いになる理由は何一つない。それを言葉にすることが出来ない松風は、とりあえずこの子の手をぺろんと舐めることで肯定の意を表してみた。
「えへへ、こちょばいよぅ。おかえしや」
鼻先をこちょこちょとくすぐられ、松風は大きくくしゃみをした。それがおかしかったのか、子供はけらけらと笑い出した。そしてさらにくすぐってくる。
くすぐったさに再びくしゃみをしそうになった松風は、ぶるぶると首を振ってそれから逃れる。困ったな、そう思った瞬間、ふとこの子に感じた既視感の正体に気付いた。
こんな感じの大人は知っている。ここの暢気な居候達のうちのひとりで、名前を、
「孫市っ!」
ここはいくさ場かと思うほどの勢いと形相で、松風の主である前田慶次が戸口から飛び出してきた。孫市と呼ばれた子供はびくうっ、と身を震わせた。まさに飛び上がるほどびっくりしたらしい。一瞬の硬直が解けると、何故か慌てて松風の身体の下に潜り込み、足の向こうに隠れた。
仕方なく松風は動くのをやめた。何かの拍子に蹄でも引っかければこの子が怪我をしてしまう。どうしているのかと足下に顔を向けると、青ざめた顔をしてぴたっと鼻先に縋り付いてくる。
「孫市、出てこい!」
鋭い慶次の声がすると、松風に縋り付いた手に力がこもる。この子はどうやら慶次が怒っていると思っているらしい。怒っている訳じゃないから安心しろとぺろりと小さな手を舐めて励ましてやった。そんな松風の思いが通じたのか、孫市はようやくか細い声で返事をした。
「…おこれへん?」
「…あ?」
孫市の身を心配して飛び出してきた筈の慶次は、当の孫市の意外な科白に気が抜けたような返事をした。気が抜けたついでによく見てみると、松風は至って落ち着いており、孫市を蹴ることは勿論、押しつぶすことも噛み付くこともせずに大人しく抱きつかれている。
どうやら取り越し苦労だったらしい。ふう、と安堵の溜息を吐き、慶次は表情を和らげた。
「何だ、俺が怒ってると思ったのかい?」
「だって、…おおきいこえやから」
慶次から発せられる雰囲気が穏やかなものに変わったのを感じ取ったのか、孫市がおそるおそる松風の影から出て来る。慶次はその小さな身体を抱き上げた。丁寧に頭を撫でると安心したのか、胸に身体を預けてくる。だがその顔色はまだ少し青い。
そんなに俺の顔は怖かったか、と慶次は思わず苦笑した。松風も顔を寄せ、その頬を舐めてやる。えへへ、と笑いまた少し表情が柔らかくなった孫市に、松風の鬣を撫でながら慶次は笑いかけた。
「松風はここの門番だからな。見たこともない子供を見て蹴飛ばしたりしたら大変だと思ってな」
「おうまさん、まつかでいうの?」
「そう、松風」
「まつかではそんなわるいことせえへん。まつかではええこや」
な、ええこやもんな。と松風の鬣を撫でる孫市は、何故か一生懸命である。どうやら今度は松風が怒られるのではないかと思っているようだ。すぐに怒る人間だとは思われたくないのだが、それはこれから訂正していくしかない。
「ああそうだ、松風はいい子だ。お前さんのこともちゃんと守ってくれてる」
「うん。ぼくまつかですきや」
ようやく普通の笑顔が戻ってきた孫市は、じっと慶次の目を見てそう云った。まだ少し疑われている。訳もなく大声を出したのではないとわかってくれないだろうか。そう思いながら、慶次は額と額をくっつけるようにした。
「でもなあ、何も言わずに外に出るのはもう止めてくれねぇか。行きたいところがあれば一緒に行ってやる。だから、飛びだす前にひとこと言ってくれよ」
ぱあっ、と光が当たったように幼い顔が輝いた。その満面の笑顔は、やっぱり子供は可愛いなぁ、と思わせる。
「うん! いっしょにいって! やくそくな!」
かなり接近している顔と顔の間で、孫市は小さな小指をピンと立てた。大きな小指と小さな小指で不釣り合いな指切りをすると、慶次の首に勢いよく抱きついてきた。
「…けぇじだいすき!」
ちょっと松風の匂いがする身体を抱き返しながら、こういうのも悪くないと思う慶次であった。
松風って、多分あんな低い位置から見たら怖いと思うんですけど。あんなでかい馬実際にはいないですよねきっと。
松風はきっとかなり頭が良いと思います。だから大人孫の子供みたいなちょっかいにイライラしているのです。
ちびからは好奇心と愛情しか発散されてないので、松風もちびは可愛いと思ってます。
慶次怖がられてるよ…(笑)そりゃあの顔であの声で怒鳴られたら大人でも怖いよ。大丈夫だよ孫市、愛があるから心配だから大きな声を出すんだよ。
ま、最後にはわかってくれた筈。大好き、なんて大人の孫市は云ってくれないですもの。