食事の膳に乗っている皿を見て、孫市は慶次の膝の上から指を指す。
「なぁ、あれなに?」
 指の先には茶色い物体。五右衛門と慶次の大好物、納豆である。ちなみに幸村はあれば食べる、阿国は大嫌いだが食べたがる人間の方が多いから仕方なく食卓に出している(でも納豆の付いた食器を洗うのは幸村が担当)、という状態の食物であった。ついでに政宗の大好物でもある。
 あの阿国をして「やっぱり東夷とは結婚できひんわ〜」とちょっぴり思わしめるほどの威力を持った美味な食物、納豆。そして紀州で生まれ育った孫市には、やはり耐え難いものがあるらしい。
「あれか? …ああ、納豆だ。美味いぞ」
「うそや。なっとはあまーいおまめさんのことや、あんなんとちゃう」
 そう言えば昨日までもこんな言い争いが毎朝続いていたなと思いつつ、遠慮がちに勧めてみた慶次の配慮は一瞬で粉砕される。
「うわ、くさい〜。ひさしぶりにかえってきたおとはんのあしみたいや」
 お前の親父の足は納豆臭いのかよ。そう思ったのは五右衛門だけではなかったに違いない。
「…飯時にそんなこと云うなよ」
 意外にも礼儀には五月蠅い五右衛門は、正しい食事中の会話について孫市を指南しようとした。だがその一言は続く孫市の新たな言葉にあっさりと粉砕された。
「だって、かわやでごはんたべるみたいでがまんできん〜」
 あまり貶されると、余程のゲテモノを好んで食べている変人みたいじゃないかと五右衛門は思う。いくらなんでも排泄物扱いはなかろう。
「そ、そこまで酷かぁねえだろ?」
 納豆の名誉のために反論した五右衛門だが、やはりというべきか孫市に最強の援軍が現れた。納豆の糸が一本かかっただけでももう食べる気がしないと、常々風上で食事をしている阿国そのひとであった。
「ほら、やっぱり孫ちゃんもそう思うやろ?」
「こんなくさいもん、ごはんといっしょにおくなんてきしょくわるい〜。なぁおねやん?」
「ほら、孫ちゃんもそう云うし。もう朝ご飯に出すのやめましょ」
 こういう時の子供の嗅覚はすばらしく、誰につけば一番得をするのかよくわかっている。阿国が出てきた時点で、完全に五右衛門の敗北であった。そもそも、料理を作る本人が大嫌いなものを、一応毎朝食卓に乗せてくれていたという事自体がよく考えれば奇跡みたいなものである。
「美味いのに…」
 このままでは朝の定番、納豆御飯が夢の存在になってしまう。目の前と下で繰り広げられる攻防をずーっと黙って聞いていた慶次がぽつりと漏らすと、孫市はもの凄い勢いで振り返り、子供特有の甲高い声で叫ぶ。

「いややっ! おえっとなるっっ!!」

 涙まで滲ませてそう断言されると、大人達は旗色が悪い。嫌だと思えば本当に吐きかねないのが子供という生き物だ。いくらお気に入りの慶次が云うことだろうと、絶対に譲る気はないらしい。
 絶対嫌じゃ、と睨んでくる真っ赤な顔に、慶次は早々に降参することにした。別に納豆くらいどこでも食べられるのだ。
「わかったわかった、食いたいときは余所で食うから。なぁ五右衛門」
「お、おう。だからもう泣くなよ、な?」
 泣く子には勝てぬ。今日は大人達の完全な敗北であった。納豆があろうとなかろうと別にどっちでもいい幸村だけが、ただ黙々と口を動かしていた。


***


 食卓から納豆の器は無事撤去され、すぐに機嫌を直した孫市は大きな茶碗と箸を持て余しながら、それでも食欲は旺盛のようだ。予め茶碗の三分の一ほどしか盛られなかった飯は、すでに空になっている。
「おねやんおかわり!」
「はいはい」
 小さな手から、阿国は大人用の大きな茶碗を受け取る。今度も同じくらいの分量しか盛らずに戻すと、受け取った孫市はあからさまにがっかりした顔をした。
「こんなんやったらごはんたらん…」
「足らんかったらまたお代わりして? 残ったら勿体ないから」
「はーい」
 一応よい子のお返事はした孫市であったが、慶次が差し出した茶碗にてんこ盛りの御飯が盛られてくるのを見て、また口をちょいと尖らせる。
「けぇじはなんでごはんいっぱいなん? ずるい〜」
 別に慶次だけいっぱい食べている訳ではなく、分量で云えば五右衛門の方が多い。幸村もしっかり食べているし、ただ孫市の目に付いたから八つ当たられているだけである。
 慶次は上から孫市を覗き込むようにして事情を説明した。見上げている孫市が逆さまに見える。
「俺はいつも絶対これだけは喰うから入れて貰えるんだ。お前さんは今日初めてだろう?」
「うん」
 返事は相変わらず素直である。
「2,3日したらちゃんと食べられる目一杯の分量で出るようになるから、それまでは何回でもお代わりしな」
「ふん。わかった」


***


 その後2度ほどおかわりをした孫市は、ふうと溜息をついて茶碗を置いた。そこに急須からお茶が注がれたが、大人になっても猫舌気味の孫市がすぐに飲めるはずもなく。
「…なぁ、ごっちょさんまだ?」
 食べるだけ食べて暇になったのか、孫市はもぞもぞとし始めた。一応勝手に歩き回ってはいけないと思っているらしく、慶次の膝から立とうとはしない。だが両足をもぞもぞ動かしているため、慶次はくすぐったくて仕方がない。まだ大人達は食後のお茶を飲んでいて、いつもならばもうしばらくゆっくりしている筈なのだが。
「…とりあえず、挨拶だけ先にするかねぇ」
 堪え性のない子供が居る以上、多少の配慮は必要だった。再び慶次の掛け声に合わせて皆で合掌する。
「「「御馳走様でした」」」
「ごちそーさまれした」
「はい、よろしゅうおあがり」
 無事挨拶を終えた孫市はてけてけと走り出し、腰の蝶結びをゆらゆら揺らしながら土間へ降りていった。
「前田殿」
「んあ?」
 湯飲みを片手に、暢気に小指で耳をほじっていた慶次は、少し慌てたような幸村の声に中途半端な返事をした。ところが幸村の表情は通常の真面目を通り越してちょっと固い。
「確か、松風と孫市は仲が悪かったのでは」
 何故か松風は、孫市を嫌っている。別に孫市が何かをしたわけではないのだが、いわゆる馬が合わないというやつらしい。孫市が近づいてくると威嚇は勿論、事と次第によっては蹴飛ばされそうになることもある。孫市は持ち前の敏捷さで、いつも紙一重の所でかわしてはいる。が、どうもわざと松風に近づいていってからかっているようで、それが松風にもわかるのだろう、とにかく最近では孫市の姿を見ただけで機嫌が悪い。
 それでなくても松風は桁外れに大きな馬だ。もし、あんな小さな孫市が蹴飛ばされでもしたら、命に関わる。
 慌てて土間を見た慶次の視界には既に孫市の姿はなく、戸口が細く開いていた。その先では松風が繋がれもせずに気ままに過ごしている。
「…やべぇ」
 慶次は血相を変えて跳ね起き、次の瞬間には土間に降りて戸を勢いよく開け放った。







元々、「はいよろしゅうおあがり」が書きたかっただけなのに、「納豆が糸引いてるのを見るだけでおえっとなる」まで盛り込まれたシロモノ。だっておえっとなるんだもの(´д⊂)当然鼻で息をする事は諦めてます。
(食わず嫌いではありません。その証拠に「美味」と書いてます。味は美味しいです。ただ臭いと見た目でおえっとなるだけで…!)
孫市の足、絶対臭いですよね長時間履いてたら…。通気性なさそう。

次は松風警備隊長の登場です。