
結構しっかり二度寝していた慶次が再び目を覚ましたのは、子供のすすり泣く声が聞こえたからだった。
「おかちゃん、おかちゃん」
身を起こした慶次のすぐ隣では布団の上に三角に座った、孫市とよく似ている男の子が泣きながらただ母を呼ぶことだけを繰り返していた。慶次はのそりと近付き、膝小僧に顔をこすりつけながら泣いているその背中を撫でた。
「目ぇ覚めたか。ほら、顔上げろ」
抱き上げようと小さな身体を持ち上げると、三角座りで固まった体制のまま宙に浮く。軽く振ってみたが解けないので、仕方なくそのまま膝に乗せて慶次は頭を撫でた。濡れた目少しあげた孫市? は、泣き続けながらも至極当然な疑問を口にした。
「おいやんだえなら? おかちゃんどこ?」
うえうえと泣きながら何とかそれだけ云った孫市? の頭をその大きな手でぐしゃぐしゃと掻き回して、慶次は自分の何分の一かわからぬほど小さな身体を抱きかかえた。
余程心細いのか、孫市? は見知らぬ大人に抱かれているというのに特には嫌がらずにいる。それが慶次にとってはいっそう不憫でもあった。
「俺は慶次。お母ちゃんは雑賀にいるんだろ? ここは越前だぞ」
「えちでん?」
「雑賀からだったら、半月ほどかかるかねぇ」
幼児の行動範囲を遙かに超える、想像もつかぬ距離に孤独感を一層掻き立てられたらしい。孫市? は自分を包む暖かいが太い腕にしがみつき、うわーと大声で泣き始めた。
この家から聞こえるはずのない幼児の泣き声を聞きつけて、すぐに隣の部屋から五右衛門と幸村が起きてきた。
「おうおうどうしたぃ。朝っぱらから人さらいか慶次。それとも孫市か?」
勢いよくがらりと障子を開けた五右衛門の目の前には、少し茶色い髪をした裸の子供を抱いた慶次が座っていた。思わず固まってしまった五右衛門と障子の隙間をすり抜けるようにして入ってきた幸村は、当たり前といえば当たり前の質問をする。
「…前田殿。孫市は何処へ行ったんだ?」
孫市がいつも着ている着物は枕元に畳んで置かれていた。孫市が眠っていた筈の寝乱れた布団には、孫市の夜着と褌、それに髪を結っていた紐までがほどけて落ちている。夜着から何から全部ここにあるのに、どういう事情があろうといい年の大人が素っ裸で出かける道理がない。たとえ厠に行くだけでも夜着は着ていく筈だった。
ぞろぞろと人が入ってきて驚いたのか泣きやんだ孫市? のぐちゃぐちゃな顔を袖口で拭いてやりながら、慶次は多分正しいと思われる推測を口にした。
「多分コレだと思う、俺は」
「孫市? これが?」
「ぼくまごいちちがう。まごいちはおとはん」
近寄ってきて覗き込むふたりに、時折すん、すんと鼻をすすりながら孫市?は答えた。無論慶次の腕にしがみついたままだ。
「…孫市の子供なのか?」
「だとしてもよぉ、こんなちっさいガキが何でこんなところにひとりで居るんだよ。それに孫市は我が子を置いて何処へ行っちまったんだ?」
小さな手にぎゅうっと腕を握られて、慶次は腕の中で身を固くしている孫市? に優しい声音で聞いてみることにした。
「親父さんの名前、わかるかい? 鈴木重秀か、それとも左大夫か」
「さらゆう、てきいた」
左大夫は鈴木重秀孫一の父である。ということは、この小さな男の子は孫市が何らかの理由で小さくなってしまった結果ここにいるという事になる。
しかしそれはそれで突拍子もない話だ。三人は顔を見合わせた。小さな孫市も、大人の話の推移を見守るようにじっとしている。
「とりあえず、いつまでも裸ってわけにはいかないしなぁ」
「阿国さんに相談すれば何とかなるさ。な、幸村」
噂をすれば何とやらで、そこまで話したところで廊下から阿国も顔を出した。部屋の中をひょいと覗き込むと、とても可笑しそうに笑った。
「あらあら孫市さま、えらい小さならはって。ひょっとして、昨日のお薬効いたんどすか?」
のんびりとした爆弾発言に、男達の視線は阿国に集中した。当の阿国はわぁ可愛い、とか何とか云いながら、小さな孫市の頭を撫でた。
暫くして男達の物問いたげな視線に気付いたのか、阿国はようやくいきさつを話し始めた。口調は無論いつもの通りののんびりしたものである。
「お薬云うても変なもんと違います、孫市さまが頭痛いって云わはったから」
頭痛を訴える孫市に、頭痛の薬だと云って飲ませたのだという。慶次に抱かれて神妙にしている孫市の頭を再びちょいと撫でて、阿国は笑った。
「病は気ぃから云いますやろ? だから出雲で若返りの薬、て云われてる薬草を煎じてお出ししたんどす」
「若返りぃ?」
「ええ。でもほんまに若返るんやなくて、お肌が綺麗になるていうだけ。うちも毎日飲んでますもん、毒やあらしまへんえ?」
そう云われれば、阿国は毎日の夕食の後にひとりだけお茶らしきものを飲んでいた気がする。
「…そうかい」
「まあ朝ご飯も出来たことやし、とりあえず起きましょか。今日もええお天気さんどすえ」
この巫女、矢張りただ者ではない。目をまん丸にしていた五右衛門が、ようやくおそるおそる口を開けた。
「お、阿国さん。びっくりしないんですかい?」
「それはびっくりしましたけど。こうなってしもたんやから、今更慌ててもしゃあないですやろ?」
「…そ、そうっすよね。阿国さんはやっぱり凄いなぁ、はは」
五右衛門は真面目に考えることを放棄した。阿国の意見は確かに正しい。だがこういう異常事態には、素直に驚くことで精神の平衡を保たなければいけない人間の方がずっと多いのだ。とりあえず五右衛門は幸村と一緒に、起きたままになっていた布団を片付け始めた。阿国は孫市にでも着られそうなものを探しに行き、部屋には慶次と孫市だけが残された。
「けぇじ」
「何だい?」
「おなかすいた。それとおちょうず」
「はいはい、ちょっと我慢してろよ」
慶次は孫市を抱いたまま厠に行き、とりあえず前田組の一日は動き始めた。
すり込み完了。これで慶次は晴れてちび孫担当です。
本当は、左大夫パパが孫市と呼ばれていたかどうかは知りません。間違ってたらすいません(^-^;)