孫市はその日、朝からそわそわしていた。
「…」
 いつもだったら『さぶい〜!』と申し訳程度に鼻の先を濡らして立ち去る筈の洗面台の前に、今日はわざわざ踏み台まで持って来た。そして長い時間鏡とにらめっこをしている。
 背後に立った慶次がカミソリを使って丁寧に髭を剃っている間も、ちょこちょこと濡らした前髪を撫で付けてみたり引っ張ってみたりと忙しい。
「何やってんだ?」
「…きょおは…けっせんやねん」
「決戦?」
 おそらくバレンタインデー絡みの事だろうと思いつつ、慶次は眉間にしわを寄せて真面目に試行錯誤している孫市に敢えて訊いてみる事にした。
「…まろちゃんにはまけられへんねん」
 まろちゃんねぇ。慶次はおうむ返しにそのあだ名を繰り返した。

 まろちゃんとは前田家から徒歩10分の豪邸に暮らす、今川家のご子息である。義元という立派な名前があるのにまろちゃんと呼ばれているのは、彼の一人称が平安貴族じみた『まろ』だからである。
 義元は孫市と同じく桃山幼稚園の年長組たるもみじ組に所属しており、持って産まれたと思しきまったりのんびりした雰囲気が可愛いと、何故か女の子に人気があるらしい。らしいというのはあくまでも孫市経由の情報だからで、実際どの程度の人気なのかは慶次ならずとも前田組の面々ならば多少の興味はある。
 もちろんわれらが前田組のアイドル孫市も弱きを助け強きを挫き、口も達者で女の子に勿論好かれている『らしい』のだが。これもあくまでも自己申告なので実際の所は不明である。
「チョコレートってのは今朝幾ら頑張ったところで、貰える数は変わらないんじゃないのかねぇ」
 右頬に刃を当ててシェービングクリームをこそげ落としながら慶次は率直な感想を口にした。だがその感想は孫市にとっては想像も付かないものだったらしい。
「なんで〜?」
 力一杯不服そうな孫市の顔が、鏡越しに慶次を睨んでいる。それもご丁寧に上目遣いである。
「なんでって、幼稚園児ってのはチョコレートは昨日までに用意しておくもんだろ」
 例え当日女の子が急に孫市にチョコレートをあげたいと思っても、大人と違いコンビニに走って調達したりは出来ないだろうと慶次は思う。
 だが、一応孫市もその辺はまでは考えていたらしい。ちょい、と口を尖らせて慶次に反論して来た。
「でもな、あさになってから『やっぱりまごいちくんにはあげへんとこ』とおもわれたらいややんか〜」
 確かにその通りである。そうでなくても『用意してはみたけれど恥ずかしくて渡せずじまい』という子も何人もいるだろうし、渡したくても親に買ってもらえない子もいるだろう。
 折角用意してもらったチョコレートはもれなく手に入れたい、と思う孫市の気持ちはわからなくもない。
「まあねぇ」
 中途半端な慶次の相槌に若干不満は感じたようだが、とりあえず同意を得た事には満足したらしい。孫市はふんと鼻息を鳴らした。
「そやろ? まあとにかく」
 それなりに前髪の状態に納得したのか、紺色の制服の胸をぱたぱたとはたいて孫市は踏み台から降りた。
「がんばってくるわ。けぇじももぉたちょこれ〜とはぎりでもなんでもちゃ〜んともってかえってきぃや。ぼくたべたるから」
 この場合、孫市の『食べてやる』は『食べさせてほしい』と同義語である。頂いたチョコレートの数は孫市自身にとっては男の沽券に関わる重大事項だが、慶次が手に入れてくるチョコレートは『自分が貰えるおやつ』としての認識しかないらしい。
「はいはい」
「よけもぉてきぃや」
 慶次が沢山のチョコレートを貰って帰ってくる、というのは孫市の中ではもう確定事項のようだ。職場における義理チョコの減少傾向が続く昨今、孫市の期待を裏切らないためにはわざわざチョコレートを買って帰らないといけない羽目になるかもしれない。
 とりあえず、慶次はあまり貰えなかった時の対策を打っておく事にした。
「そればっかりは俺の力じゃどうしようもないねぇ」
「まああいてあってのこっちゃから? …ま、けぇじもがんばりや」
 ぽんぽん、とすぐそこにあった太ももを叩き、孫市はようやく洗面所を後にする。ごっはん、ごっはんとぴょこぴょこ跳ねながらリビングへと移動して行く後ろ姿を眺めつつ、憮然とした表情の慶次は最後に残ったクリームの一塊を削ぎ取った。








 決戦の結果は不明です。