慶次は家を出て、家から歩いて5分ほどの所にある大きな公園までやってきた。
 午前の公園には、慶次と同じ年頃の子供はひとりもいない。まだ幼稚園にも入らないくらいの子供の一群が、その母親達と思しき一群に取り囲まれるようにして砂場で遊んでいるだけだ。
(そりゃそうだよな、みんな学校行ってるもんな)
 慶次は手に持ったボールを地面に落とし、蹴飛ばしながら公園の奥へと向かう。遊具のある区域を過ぎた向こうにあるグラウンドで、サッカーの練習でもしようと思ったのだ。
 グラウンドにもほとんど人影はない。7月半ばの真夏に近い日差しの中、ゲートボール場のじいちゃんばあちゃん達もとっくに店じまいを終えて帰ってしまったらしい。だだっぴろいグラウンドの真ん中で、慶次はリフティングを始めた。ひとりで出来るサッカーの練習としては手頃かつ面白い。
 そうして暫くリフティングに熱中していた慶次だったが、流石に喉が渇いた。腕の時計をちらりと見ると、もう20分が過ぎている。昨日の午後来たときに見つけたグラウンドの隅の水飲み場へと、ボールを抱えて駆け出した。


***


 水飲み場は西門の近くにある。走る慶次の視界に入った公園の西門に、小さな子がぽつんと立っていた。
 近くには友達も母親も誰もいない。たったひとりで佇んでいるその姿が、妙に気になった。慶次は水飲み場に直行するのをやめ、その子のところへと向かう。
 その子は赤いリボンの付いた麦わら帽子を被っていて、つばの下にふたつ並んでいる大きな目はきょろきょろと何かを探しているようだった。あと3歩、という距離まで近付いて慶次が立ち止まると、くろい目でじっと慶次を見上げてくる。
「お母さんとはぐれたのか?」
「…ううん」
 学年で一番大きい慶次より、随分小さいその子はぷるぷると首を振った。
「ぼくな、ひとりであそびにきてん。ぶらんこどこにあんの?」
 赤いリボンと可愛らしい顔を見て、慶次が勝手に女の子と思っていたその子は、どうやら男の子だったらしい。そう思って改めて見ると、不思議と男の子に見えてきた。
 慶次は東門の方向、遊具コーナーを指さした。ブランコは見えないが、木々の隙間からちらちらとカラフルな遊具が見え隠れしている。
「ブランコはあっち。つれてってやるよ」
「ふん。ありがとぉ」
 一緒に行こうと手を差し出すと、ためらいもなく小さな手が慶次の手を掴んだ。仲良く手を繋いで2、3歩進んだところで、慶次は肝心なことを思い出した。
「あ、先に水のんでいいか? すぐそこなんだ」
 ふん、と頷いた男の子を遊具とは逆の方角に軽く引くと、ちょこちょことついてきた。ほんの10メートル先に、ペンギンの形をした水飲み場が見えている。
 慶次が蛇口をひねって水を飲もうとすると、男の子がくいと慶次のシャツの裾を引っ張った。
「ぼくものどかわいた〜」
 泣きそうな顔で訴えられた慶次は仕方なく、この子に先に水を飲ませてやることにした。だが、慶次にも少し高い位置にあるこの水飲み場は、この子には高すぎる。
 何故公園の水飲み場に、最大のユーザーであるはずの子供用の踏み台がないのか。改めて行政に怒りを感じた慶次であったが、当面この子に水を飲ませてやれる方法は一つ。
「だっこしてやるから、ほら」
 よいしょ、と男の子の腿のあたりを抱き、慶次は水が飲めるくらいに持ち上げてやった。男の子は水飲み場の縁に両手をかけ、ごくんごくんと喉を鳴らして水を飲んでいる。その音を聞いていると、元々からからだった喉の渇きがいや増してくるようだった。
「もういいか?」
「……」
 慶次はしびれを切らして声を掛けた。が、相手は水を飲むのに忙しく返事をする余裕がないといった感じである。だが、慶次の腕も喉ももう限界である。
「もうおろすぞー」
 一方的に宣言し、慶次は男の子の足を地に降ろす。あーつかれたと腕を振っている慶次に、男の子は口元をびしょびしょに濡らしたままにっこりと笑った。
「おいしかった! あんにゃんありがとぉ」
「そっか」
 笑顔で礼を言われると悪い気はしない。慶次は尻のポケットから少しよれたハンカチを出して、男の子の口の回りを拭いてやった。
「こんどはおれの番だからな、ちょっとまってろよ」
 慶次は急いでごくごくと水を飲むと、ぐいと右手の甲で口元をぬぐった。そしてじっと待っていた男の子に宣言する。
「お待たせ。じゃ、ブランコまで行こうぜ」
「うん!」
 再び手を繋ぎ、ふたりは歩き出した。


***


 ブランコまでの短い道のりで共通の話題に困った慶次は、とりあえず自己紹介を始めることにした。煉瓦の遊歩道を歩きながら、右側を歩く男の子の顔を覗き込む。
「おれさ、慶次ってんだ。お前は?」
「ぼくまごいち」
「まごいち? かわった名前だなぁ」
 生まれて初めて聞く名前に、つい素直な反応が出てしまった。だが、ぴたりと立ち止まって俯いてしまった『まごいち』を見て、しまったと思う。
「…へん?」
「へんじゃないよ、いい名前だと思う」
 変な名前だとよく言われるのだろうか。まごいちの曇った眉を晴らそうと、慶次は慌てて取り繕った。
「ほんまに?」
「ほんとほんと。めずらしいけど、いい名前だよ。おれはすきだね」
「ふん…」
 辺りに漂ってしまった気まずい空気を払拭するために、慶次は話題を変えることにした。繋いだ手にぐ、と力を込め、殊更に明るい声で新しい質問をする。
「まごいちは何さいなんだ?」
「5つ。けぇじは?」
 名前の話はあまり気にしていなさそうなまごいちの気配に、慶次は内心安堵した。ふたりは再びゆっくりと歩き出す。
「7さい。二年生なんだ」
「にねんせいやのに、なんでがっこういけへんの?」
 まごいちは不思議そうに首を傾げた。今が7月半ばであることを考えればもっともな質問である。だが、慶次もただ学校をさぼっているのではない。一応大義名分があるのだ。
「おれ、引っこしてきたばっかりでさ。二がっきから行くことになってるから今ヒマなんだよな」
 地元の公立小学校ではなく、電車で通わなければならない某私立学校へ編入する事になった慶次は、もう一週間ほどしか残っていないからと一学期は行かないことになったのだ。
 本人の意志など全く関係のないところで決められていく事に対して、慶次は何も言わないことにした。堂々と学校に行かなくても良いのなら、それに越したことはない。
「ぼくもよ〜、きんのおかちゃんといっしょによ〜、おじいんとこきてん」
「どっから来たんだよ」
 まごいちの言葉はどう聞いても関西弁である。だが、慶次にはそれ以上のことは分からない。大阪とか京都とか神戸とか、慶次の知っている関西の地名を期待しつつ訊いてみたのだ、が。
「わかやま」
 和歌山。全く知らない地名である。どこにあるのか何があるのか、さっぱりわからない。
「わかやまって遠いのか?」
「あさえ〜でて、よけでんしゃのって、くろなってからついてん」
 朝家を出発して暗くなるまでかかったというのなら、かなり遠いのだろう。慶次はそう判断した。
「すて〜しょんでちょこれ〜とぱふぇもたべてん。おいしかってん」
「そっか」
 慶次はうんうんとうなずいた。この際『ステーション』が和歌山駅前ステーションビルである事など知らなくても話は通じるのである。とにかく昨日まごいちはチョコレートパフェを食べて満足したのだ。
「おれもチョコレートパフェ食いたいなぁ」
「おいしいで〜」
 えへ、と大きな目が溶けた。昨日食べた時の幸福感を思い出したのだろう。まごいちは余程の甘党らしい。
 そこまで話したところで、ふたりの前にブランコが現れた。


***


 ふたりはアスファルトの上をてくてくと、相変わらず手を繋いで歩いていた。次の目的地は孫市のじいちゃんの家。ブランコとすべり台とジャングルジムで遊んでいるうちに慶次の腕時計が『11:50』になったので、ご飯を食べに帰るのだ。
 ふたりの影はすっかり足下に縮こまり、ふたりの額にはきらきらと汗が光っている。そしてじいちゃん家の前まで辿り着いた時。
「なぁけぇじ」
「ん?」
「…あいたもあそぼな」
 呼びかけられて孫市を見た慶次を、まごいちの大きな目がすがるように見ていた。その目を見ると、慶次は胸がきゅうっとなった。
 思えば慶次もまごいちも、来たばかりのこの町にはまだ友達がいないのだ。
 慶次もこの数日、公園でひとりでボールを蹴るのが日課になっていた。サッカーは好きだ。練習も楽しい。でも、ひとりだとやっぱりつまらない。早くみんなが夏休みになれば、友達も出来るだろうに。ボールを蹴りながらずっとそう思っていた。
 小学生の慶次でもそう思うのだ。知らない町を、ひとりで公園まで来るしかなかった小さなまごいち。その寂しさを思うと、慶次はいくらでも遊んでやりたくなった。
「うん。むかえに行くから、まってろよ」
 まごいちの両手を取り、慶次は真摯な表情で約束をした。
「まってる。まってるからぜったいきてな」
 握り合った手を離したかと思うと、ぎゅう、と孫市が抱きついてきた。その小さい背中を慶次はぎゅう、と抱き返した。ぎゅう、とすることでしかこの気持ちを伝えることは出来ない。そう思ったからだ。
「ぜったい、ぜったい行く」
 ふたりは炎天下のアスファルトの上でたらたらと汗をかきながら、しばらくぎゅう、としあっていた。


***


「あらあら、この暑いのに。何やってんのあんたら」
 固く抱きしめ合っているふたりの耳に、呆れたような声が聞こえてきた。そして門扉の奥から、まごいちによく似た大きい目の女の人が大きなお腹を撫でながら出てくる。その突けばはじけそうなお腹を見た途端、『サトガエリシュッサン』という言葉が慶次の脳裏をよぎる。
「あ、おかちゃん! たらいま〜!」
 ぱ、と慶次から離れたまごいちは、たかたかと母の元へと走っていった。迷わずぴちゃ、と抱きついて、だがすぐに離れる。後で聞いたところによると、ぎゅうっとするとお腹の赤ちゃんに良くないから駄目だと云われているらしい。
「…まごいちのお母さん?」
 優しそうな顔をした、いい匂いのする女の人だ。慶次の前まで来ると、屈んで慶次の顔を覗き込み、にっこりと笑った。
「ぼく、孫市と遊んでくれたん?」
「はい」
 突然にゅ、と孫市がふたりの間に割り込んできた。すかさず慶次の腕を取り、ぴたりとくっつく。どうやら『ぼくのおともだち』という事を主張したいらしい。
「けぇじな、あいたもあそんでくれんねて。いまやくそくしてん」
 その様子を見ていた孫市の母は、2回ほど目をぱちくりとさせた後、けらけらと笑い出した。
「そう、よかったやん。でもなぁ、あんたももうちょっと涼しい約束の仕方したらええのに」
 お説ごもっとも、である。慶次もまごいちも、抱き合っていたお腹側のシャツの色が、汗ですっかり変わってしまっているのだ。笑いながらも孫市の母は、手にした団扇で慶次を扇ぐ。ふわふわと温い風が慶次の汗を冷やしていく。
「ねぇ。けいじくん、暑かったでしょ。お茶でも飲んで行きなさい、ね?」
 誘うように肩にやさしく手を置かれ、慶次は慌てて云った。
「あ…おれも帰らなきゃ、しんぱいされるから」
 このまま孫市の家に上がってしまったら、居心地が良くて帰りたくなくなるのは目に見えている。孫市の母を見ていると、少し前に別れた母親のイメージがだぶってしまうのだ。
(つい母ちゃんのこと思い出して…)
 急に身を固くして云った慶次を見て、孫市の母は無理には引き留めないことにした。
 同じくらいの子供を持つ母親としては、子供にもいろいろな事情があることはよく分かっているつもりだ。きちんと挨拶も出来る子供だから、ひょっとしたら親が厳しいのかも知れない。折角孫市と遊んでくれたのに、引き留めたことで叱られたりしては可哀想だ。
「そう? ま、お昼やしね。お家は遠いの? 送りましょうか?」
「10分くらいで帰れるから、だいじょうぶです」
 走って帰れば、なのだが、慶次はそれを云わないことにした。このおばさんは「じゃあ車で送るわ」と云いそうな感じがしたからだ。
「今日はありがとうね。今度はおばちゃんお菓子作ったげるから、また来てやってね」
「はい。じゃあな、まごいち。明日来るから」
 名残惜しそうにくしゃ、と眉を寄せた孫市の頭をひとつ撫で、慶次は歩き出した。帰りたくない、そんな思いを振り切って。
 が、10歩も歩かないうちに、慶次の名を呼ぶ孫市の声が背中に飛んできた。振り返ると、孫市が道の真ん中で手を振っていた。
「ぜったいきてや〜、まってるで〜!」
 ぶんぶんと手を振っている孫市に両手で大きく手を振ると、慶次は踵を返して走り出した。
 未だ馴染みのない、温もりを感じられない我が家へ。







ふたりの出逢い、現代編です。
里帰り出産にくっついてきたこまごと、前田家の養子になったばかりのこけいじ。なので、里帰り出産が終わるときがふたりの別れの時です。
こまごってばいきなりぎゅう、としてますね(^-^;) でもぎゅうとかぺたぺたとか好きな子なので仕方ありません。
こけいじはまだ前田の両親に馴染んでないようです。新しい両親と仲良くなるのが課題です。